みやふきんの見聞録

見聞きしたり感じたものを記録するブログ

言葉のちから〜読む想像力から考える

とある朝のこと、Twitterでフォローさせてもらっている方のRTから、言葉の想像力について考えた。

本を読めない子どもに漫画ならと思ったが、それも難しく、今は動画だというようなツイートだったように思う。

そこから考えたり、感じたりしたのが以下になる。

しばし、私の考えや感じたことにおつきあい願います。

 

想像力というのは経験の積み重ねでもある気がするのです。

 

 

小説の面白さというのは、視覚、聴覚、触覚などの感覚から得た情報を文字による言葉で表現して(描写)、読み手が過去に経験したかもしれないそれらの記憶を呼び出して、あるいは経験してなくても似たようなことを想像させ、なおかつ登場人物の感情の流れや考えを追体験できることにある気がする。

物事の説明で、普段使わないような難しい単語が出てきて、パッと理解できないこともある。辞書を引いてそれをやさしい言葉で置き換えて理解する。理解したことが経験になる。その難しい言葉が、その物事を端的に表したものだと思えば、そっちを自分の中に残していってもいい。

 

言葉から頭の中で置き換えて味わうことの醍醐味は、一瞬でそこへ跳べることだと思う。言葉だけがあれば置き換えられる。おのおのの流れる時間で読めるから、数分間だけでもいい。

すごいことだと思う。

それが本のいいところだと思う。漫画も含めて。

漫画も想像する楽しみのあるものだと思っている。コマの中には描かれたもの以上のものがあって、想像することで広がる面白さがある。

漫画の絵が持つ力は視覚的に瞬時に理解できるすごさを感じる。しかし思いのほか漫画は言葉の力が生きている世界だとも思う。擬音語擬態語で表現される効果音なんかが特に。

 

等しく時間が流れる動画は、時に苦手だと感じる。時間がもったいない、端的に言いあらわせるだろう。私の中で、ことばの音が鳴りひびく時間が、読む時間と乖離しているから、よけいにそう思うのかもしれない。

朗読は、ことばの音を感じるライブみたいなもので、音声読み上げとは違う。込められた感情を感じとったりすることで、作品のことばの内側にあるものが表現されているように思うから。

視力の恩恵で私は読むことができている。視力を失った時に、まだ私はことばを紡ぐことができるだろうか。視覚的に頼りすぎた言葉の使い方が、音だけで紡ぐことができるだろうか。

 

ことばの音が私の中から、口に出したとたんに消えてしまう恐怖。ことばを記憶でつなぎとめられずに、機械に頼って何度も録音と再生を繰り返しながらであれば、できるのかもしれない。

すぐに戻ることができる文字による言葉と、音による言葉は、私の中ではやはり何かが違っている。音の言葉が旋律になって、記憶に残るほどの力を持つなら、また違うのだろう。

文字の言葉が記憶を呼び出して、音の言葉が呼び出せないわけはないのに、長く保持できない。もちろん私だけの問題というの、大いにありうるけど。

だって昔の文字のない時にも、口伝でつながれた物語はあったのだから。

 

でも、私は、文字による言葉が好きだから、できる間は文字による言葉で物語を紡いでいきたい。